先日書いた妙齢のご婦人に水泳を教える話の関連です。
芸事には、必ずといってよいほど巧拙が付きまとうものです。そして、その道の達人の技は、いつも「惚れ惚れと」という表現がぴったりな一連の動作によって行われるのが常で、その動きは周囲の人々を魅せずにはおきません。野上弥生子さんの、見事な筆で、その芸事の巧拙が描かれた文章が「秀吉と利休」にあります。以下に引用します。
前段が技の劣る秀吉、後段が達人の利休の描写です。
以前とちがって、秀吉は茶の稽古はもうめったにしない。しかしたまに、見てもらおうか、といいだす時は不審庵であっても、同じ聚楽第内のどれかの数奇屋であっても、彼が主人役をつとめる。(中略)まず茶巾、茶筅、茶杓をしこんだ茶碗を膝のさきにおき、茶杓をふくさで拭うことからはじまる点前は、いかにも自信にみちたものであった。といってもつねの拘りのなさとはまるで別で、意識的に大きく、大きく点てようとするのが、いっそそれを空疎な味のないものにするのであった。「野上弥生子:秀吉と利休から引用」
つづいて秀吉が客になり、利休にたてさせる。(中略)たった今まで秀吉が行った通りの仕方と手順で、道具もそのままなのはいうまでもない。ただ違うのは、釜でも、柄杓でも、茶碗でも、茶杓でも、ただその場所にあるのではなかった。一つ一つが利休の手の触れるのを待っており、彼が取りあげたり、湯をいれたり、すすいだり、吹いたりするというより、道具の方からそれぞれに動いて、運びをつくって行く。たえず淀みなく流れる水を、あの水、この水、と指し示すのがむずかしいように、どんな仕方で、何の後になにがなされたか、眼をこらしていても、とんとわからない。利休はちようど軽い小舟が水のまにまに浮き、流れるに似て、眼に見えない自然な作用に淡々と身を任せているに過ぎず、秀吉がよく使う乾潮いろの分厚な茶碗で、それも彼の好みをこころえて大服にたてる茶さえ、ただの緑いろの液ではなく、ほの暖かいいのちの香気にみちた飲みものが、茶碗の底からひとりでに膨れあがる感じであった。「野上弥生子:秀吉と利休から引用」
スポーツでもそうなのですが、自然な動きをしよう、と心がけるから自然な動作になるのではないのです。ところが、基本がしっかりしていないところで、無理に体を動かそうと思っても、却ってぎこちない動作になったりするものです。基本をしっかりと守りつつ、ディテールにも心を配って、初めて一皮剥けた動作になるのです。この「自然な」という表現を「大きい」「美しい」に変えても全く同じです。大切なのは基本。そしてディテールです。世にいう様にディテールには神が宿ります。
自然な動きをしようという意識を忘れたときに、自然な動作の入り口に立てるのです。全ては己を無にしなければ始まらないのです。例えば、肩に力が入った人に、「肩の力を抜いて…」と声を掛けてもダメで、その箇所とは違う、その生徒さんに必要なもっと大切な部分に心を向けさせてみると上手く行くこともあります。
これを、妙齢のご婦人方の生徒に分かって頂くのは、これはまたなかなか難しい。小生自身がきっと分からせよう、という意識を捨てるところに糸口があるのかもしれませんね。小生も原点に戻り、「水の中でその生徒さんの身体から動きを引き出す事」に気を配る必要があります。
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